大原神社(おおはらじんじゃ・善長寺町)と
大原神社(おおばらじんじゃ・三和町)

大原神社 ― 綾傘鉾の町家・会所

大原神社 ― 綾傘鉾の町家・会所 大原神社 ― 綾傘鉾の町家・会所

綾傘鉾では、祇園祭中の会所を町内に鎮座する大原神社に置いています。この“大原神社”、京都府下には、美山と福知山市天田郡三和町(あまたぐんみわちょう)に同じ名前の神社が存在しています。この内、後者の方が善長寺町に鎮座する大原神社とつながりを持っていました。しかしながらこの“大原神社”、漢字こそ同じもののその読み方については違っており、綾傘鉾の鉾町である善長寺町の大原神社は“おおはら”と発音しているのに対し、三和町に鎮座する大原神社は“おおばら”と濁音となっています。 この両社の関係については、善長寺町の大原神社は三和町の大原神社の出張所であるということがわかりました。昔の文献によると、江戸時代までは三和町の大原神社の御札がここで販売され、その売り上げを三和町の大原神社に上納していたことがわかります。ところが、江戸中期頃、三和町の大原神社への上納金のトラブルによってすっかり疎遠となってしまいました。それが2001(平成13)年に、いろいろな方の助力によって、約250年ぶりに両社の交流が再開しました。綾部市教育委員会や三和町役場、佛教大学等の調査によって、両町神社の関係性を明らかにできた上、新たな交流を再開できるまでに発展し、現在に至っております。

会所

平成14年(2002)、大原神社内に新しく保存会の願望であった会所が完成しました。現在はこの会所で、保存会・理事会・青年部の会合や後援会の事務をおこなうことができるようになり、祭り最中にも多々利用される重要な施設とっています。 また、祇園囃子、棒振り囃子の練習もこの建物内で随時おこなえるようになり、他の鉾町と同様に“二階囃子”もできるようになりました。7月上旬に当鉾町をお通りくだされば、今まで宵山(14~16日)しか聞けなかった祇園囃子、棒振り囃子が聞こえてくるかもしれません。

善長寺町―綾傘鉾の町

もう一つ、綾傘鉾の鉾町に関して興味深いことは“善長寺”という町名です。「町内に神社はあってもお寺はない善長寺町」とも言えるこの不思議に対する答えは江戸時代よりも前、豊臣秀吉が京都の町を改造したとされる時期にまで遡らなくてなりません。 秀吉による京の町改造とされるのは、①聚楽第(じゅらくだい)の建設と隣接する大名屋敷地(武家町)の開発、②内裏の修築及び御所(公家町)の編成、③本願寺を中心とした市街地南部の開発、④寺町の形成、⑤寺ノ内の形成、⑥方広寺などによる鴨川以東の開発、⑦長方形地割の形成(「天正地割」と呼ばれる)と⑧これらを囲郭する御土居堀の構築であるとされています。このうちの④寺町の形成というものが、善長寺町の怪を紐解く可能性を秘めていると考えられるのです。現在、蛸薬師通新京極下ルに「善長寺」が存在します。この場所は現在の地図でも江戸時代の絵図類からも見てわかるように寺院が縦に列をなして形成されている“寺町”であることが明白です。 つまり元々本鉾町に存在していた「善長寺」が秀吉の政策によって寺町に移動させられ、寺院の名前が町の名として存在し続けたということであろうと思われます。このような事例は多々あり、最も可能性を持った説のひとつであると考えます。さらに言うならばこの善長寺の山号が「大原山」とされることから、現在の綾傘鉾の会所がある大原神社との関係が感じられます。

大原神社(おおばらじんじゃ)三和町

大原神社(おおばらじんじゃ)三和町

古く「大原志(おおばらざし)」と俳句の季語にも詠まれた大原神社はこの地方の安産信仰をつかさどる神社としてたくさんの人々が参拝に訪れています。仁寿2年(852)に創建され、累代藩主の庇護を受け公卿諸侯の尊崇を仰ぎ、とりわけ綾部藩主九鬼侯の崇敬篤く、現在の広壮なる社殿は寛政8年(1796)に再建されたものです。拝殿唐破風の「龍の丸堀り」等の彫刻は見ものです。京都府有数の絵馬を所蔵する芽葦の絵馬殿とともに京都府の指定文化財に指定されています。

620-1301京都府福知山市三和町大原鎮座
TEL:0773-58-4324 / FAX:58-3871
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